市民と考える建築家
長谷川逸子の発した問い――《湘南台文化センター》をめぐって門脇耕三が考察する
長谷川逸子をめぐる仮説
長谷川逸子は、権力や権威に一貫して抗いつづけ、常に民衆を向いてきた建築家である。長谷川が1990年に完成させた《湘南台文化センター》 の設計の過程においても、当時としては珍しく、長谷川は粘り強く市民と対話を重ねていた。こうした事実は、公共建築における市民参加が常識となりつつある現在、ふたたび注目を集めるようになってきている1。また《湘南台文化センター》は、長谷川の代表作といってよいが、こうした作品を通じて長谷川が建築界での地位を確立していった時期は、日本経済が異常に拡大したバブル期に重なっている。しかし長谷川は、市場に翻弄されることも、ポピュリズムにくみすることもなかった。
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《湘南台文化センター》の設計プロセスを扱った最近の記事としては、長谷川逸子(談)「《湘南台文化センター》(1990)の設計プロセス――権威主義が崩れ始めたころ」(「建築雑誌」Vol. 133,No. 1707,pp. 3-6,日本建築学会,2018年)などが挙げられる。 ↩
騒乱の時代にあったものごとの真の意味を見定めることは難しいが、当時からすでに30年あまりが経っている。そこで、この「Meanwhile in Japan」で長谷川を取りあげるにあたって、私はひとつの仮説を提出してみたいと思う。すなわち、《湘南台文化センター》は、1970年代の日本の住宅で試みられたさまざまな実験の成果が、公共建築として結実した作品として捉えられるのではないか、という仮説である。日本の小住宅の実験性は世界でも知られるところだが、スケールをはじめとして、住宅と何もかもが異なる公共建築との結びつきは、これまで誰も考えなかったことである。では、小住宅での実験は、いかにして公共建築へと結実することになったのか。
この仮説の検証には、当時の膨大な資料の研究に加えて、長谷川本人と対峙することを要したが、小住宅と公共建築のパラドキシカルな関係をめぐる一連の検証作業は、ポストモダニズムのただ中にあった、日本の1980年代の建築の豊かさの見直しへと導かれていった。ともあれ、その詳細の理解に至るために、まずは多少の背景を語っておく必要があるだろう。
湘南台文化センターの衝撃(と蕩尽)
長谷川は、槇文彦が「平和な時代の野武士達」と呼んだ、1940年代前半に生まれた建築家たちの一人である。槇は、『新建築』1979年10月号に掲載された小論1にて、まだ若かった長谷川たちの世代の建築家を、黒澤明が監督した映画『七人の侍』になぞらえて「野武士」と表現した。黒澤が描いた野武士は、主君を持たず、百姓に雇われて、民衆のために闘う侍たちであったが、槇は、ごくあたり前の庶民のための住宅を、しかし建築への情熱を通じて作品へと昇華させる若い建築家たちに、野武士の幻影を見たのだった。
そうした若手建築家のひとりだった長谷川が、一気にスターダムへと駆け上がったのは、1986年のことだった。この年に長谷川は、前年に竣工した《眉山ホール》 により、国内で最高の建築賞とされる日本建築学会賞 を受賞する。それとほぼ時期を同じくして、1000人以上の応募登録と215もの応募作品を集めた、藤沢市の文化センター のコンペティションに勝利する。ふたつの快挙を同時に成し遂げた長谷川は、一躍時の人となった。またこのできごとは、日本の建築家の世界にもようやく女性が本格的に進出しはじめたことを、強く印象づけるものになった2。
長谷川のコンペ案のデザインは極めて斬新で、当選が報じられた直後から、実現に至るまでの設計の労力と工費に関する不安の声が上がるほどだった1。しかし長谷川は、数々の困難を乗り越え、この提案を《湘南台文化センター》として1990年に完成させる。完成前の不安の声をよそに、それはむしろ、ハイテックな未来の集落のようなコンペ時のイメージを、さらに強化したものとして出現した。
《湘南台文化センター》は、旧来的なフォルマリズムを退け、カオティックでありつつも軽くて現象的な、まったく新しい建築によるものとして衝撃をもって迎えられた。しかし《湘南台文化センター》が不幸だったのは、竣工が日本のバブル景気のピークに重なったことである。《湘南台文化センター》は、やがて訪れたバブル崩壊後の景気低迷の時代に、狂乱的な経済によって実現した遊戯的な建物として受け取られることが多くなってしまったのである。《湘南台文化センター》は、実際には、バブル景気前の建設単価を根拠にした予算で建設されたため、むしろローコストな建物である(長谷川が当選したのは1986年4月であるが、バブル景気は1986年12月に始まったとされている)。
しかし往々にして、こうした誤解ははびこりやすい。筆者が大学に入学した1990年代後半頃には、《湘南台文化センター》は一時代前の建物と受け取られるようになっており、すでに当初のみずみずしさを失っていたと記憶している。《湘南台文化センター》は、コンペの結果が大きな話題となり、注目の作品として設計の経過も建築作品誌等のメディアで報じられているが2、その注目度の高さゆえ、コンペから竣工までのあいだに、長谷川案に感化された類似の作品が数多く出現したことも3、この作品の急速な消費に輪をかけたのだろう。
小住宅の実験
では、なぜ1970年代後半の日本に、小住宅と格闘する「野武士」たちが登場することになったのか。ここでさらに、日本の現代建築の歴史的な流れを大まかに振り返っておこう。
太平洋戦争後に再出発した日本の建築は、戦争で壊滅した都市と人びとの生活を回復すべく、工学的な知見に裏付けられた設計の合理化と、建築生産の工業化を大規模に推し進め、すぐに大量の都市建築物や住宅の供給を果たした。この動きを主導したのは官僚機構であったが、建築家とテクノクラートによる進歩主義的な都市像・建築像が極まって、ユートピア然とした実像として焦点を結んだのが、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げて1970年に開催された、日本万国博覧会(大阪万博)であった。
一方、この頃の世界では、それまでの近代主義に対する異議が、さまざまなかたちで申し立てられていた。1968年にはパリで五月革命が起こり、その波はミラノやヴェネチアにも飛び火して、ミラノ・トリエンナーレとヴェネチア・ビエンナーレの会場が学生や若い芸術家によって占拠された。こうした動きと呼応するように、ヨーロッパでは若い建築家による前衛的な建築運動が盛んになったが、磯崎新は、雑誌『美術手帖 』上で1969年末から開始した連載を通じて、その動きの中心にいた建築家たちをいち早く日本に紹介した1。翌年の大阪万博は、日本の建築界における近代主義のピークであったが、世界的な趨勢には逆らえない。日本においても進歩主義的な近代主義はほどなくして挫折し、これに変わる枠組みの模索が余儀なくされたのであった。
磯崎よりさらに若い世代の「野武士」たちは、近代主義の挫折にもっとも敏感に反応した建築家だった。槇が「野武士」と呼んだのは、長谷川に加えて、石山修武 、安藤忠雄、伊東豊雄らであったが、彼らはそれぞれ、官僚機構をはじめとする権力に依存せずに、現代の民衆のための建築を模索したのである。だから1970年代には、主に小住宅を舞台として、若い建築家たちのさまざまにラディカルな試行が多様な作品として花開いた。これを「狂い咲き」と表現した書籍すらある2。いずれにせよ、1970年代の日本の小住宅には、社会に対していまなお本質的な問いを発しているものが少なくない。現代の視点から顧みても、今なお重要だと考えられる点を、以下に列挙してみよう。
当時の若い建築家たちは、小住宅の設計を通じて、第一に、急激に進む都市化とそれに伴う環境悪化への否定的な態度を明確にした。たとえば安藤忠雄のキャリア初期の傑作《住吉の長屋》(1977)に見られるように、この時代の都市住宅の外観は一様に閉鎖的だが、これは都市を拒絶する意思が表明されたものである3。しかし、これは都市を打ち棄てるべき対象と捉えるような単純な否定ではない。都市のありようを否定しつつも、それでも都市に建てられた小住宅は、したがって都市と向きあう新しい方策を表明するものでもあった。
第二に、都市化の根底にある大量建設を助長した建築生産の工業化に対しても、臆することなく向きあった。1970年代の建築家たちは、それ以前は一般的でなかった工業化された建材を扱う論理を組み立てる必要に駆られたのだが、この時代の小住宅は、その実験場としても機能した。石山修武は、この問題にもっとも真剣に取り組んだ建築家のひとりで、《幻庵》(1975)をはじめとするコルゲート・パイプを用いた一連の作品は、自身の尊厳が脅かされることなく、自立的に生きるための空間を獲得するという切実かつ崇高な課題に、工業化された建材や構法を用いて応えようとした住宅である。こうした試みを通じて、この時代に、建築生産が進むべき道筋がそれまでにないかたちで示されたのである。
第三に、人間が自身の生きる空間に主体的に関わることを鼓舞した。石山修武は、先に述べた一連の住宅において、工業化された構法を居住者がみずから扱える技術として位置付け、居住者自身による建設を設計によって援助した。また、この時代にはほかにも、鯨井優による《プーライエ》(1973)や、山根鋭二による《カラス城》(1972)など、居住者によるセルフビルドを試みた小住宅が少なくないが、これらの住宅は、一応の完成を見た後に、建築家の想定を越えた改変を居住者が積み重ねていくことを許容するものでもあり、建築の主体を、つくり手から使い手へと移譲しようとする試みであるともいえる。1970年代の小住宅での試みは、この点でそれ以前のメタボリズムなどとは一線を画している。
しかし1980年代に入ってしばらく経つと、日本の建築は迷走をはじめる。この頃には社会資本が充足されて、本格的な消費社会が到来し、資本主義やポピュリズムに任せたような建築作品が登場するようになった。バブル景気の到来は、これに輪をかけた。時代は折しもポストモダン建築が全盛の頃だったが、日本の建築にも、自国の歴史とは連続しない西洋建築由来の記号化したエレメントが乱舞するようになった。建築は遊戯性を極め、そしてバブルの崩壊とともに、すべてが一気に瓦解した。1995年に日本をおそった阪神・淡路大震災や、カルト的な新興宗教団体が起こしたテロ事件が、無根拠に高揚した気分にとどめを刺した。バブル期の過剰で装飾的な建築は忌み嫌われるようになり、1990年代後半以降の日本の建築は、洗練されたミニマルな表現に急速に舵を切っていくのである。
分断ではなく継承と発展だった
《湘南台文化センター》は、こうした流れの中で影響力を弱められてしまった作品だと私は考える。そこで私は、「小住宅での実験が公共建築として結実した」という自身の仮説を確かめるべく、公表されている資料に加え、長谷川の事務所が保管している資料の検討を行った。すると、以下のような点が《湘南台文化センター》の際立った特色として浮かび上がってきた。すなわち長谷川は、
1) 市民とともに考えながら建築をつくった
《湘南台文化センター》では、設計の過程で一般向けの集会を介した市民参加などの先進的な試みが行われている。ここで長谷川は、これまでの「市民を啓蒙する建築家」(権威としての建築家)に対して、「市民と考える建築家」(傍らに立つ建築家)というあり方を示した。
2) 運営にも果敢にコミットした
《湘南台文化センター》は、公共施設の運営のあり方に計画段階から建築家が関わった、当時としては希有な例である。これを起点に、その後の長谷川の事務所では、公共建築のプログラムにかかわる方法が確立されていく。
3) コレクティブな制作を主導した
長谷川は《湘南台文化センター》を「第二の自然としての建築」というキーワードで説明するが、その言葉に違わず、そこでは人工的な地盤(スラブ)を一種のプラットフォームとして、建築とも家具ともつかないさまざまなエレメントが、アドホックな様相でしつらえられ、あたかも花を咲かせているかのようだ。それらのエレメントには、パンチングメタルや瓦など、新しいものから伝統的なものまで多様な材料が用いられているが、その少なくない部分が、コスト難を直接的な理由として、建築設計者・アーティスト・学生などによって制作されたものだという。つまりあのエフェメラルさを表徴するデザインは、たくさんのクリエイティビティが渾然一体となった、コレクティブな制作の結果として理解することができる。
4) 生産システムに介入した
1980年代後半は、工業部品や工業化構法がほぼ行き渡り、建築生産システム全体の工業化が完成する直前の時期であった。しかし《湘南台文化センター》には、建築設計者の制作への参加などを通じて、手仕事的な要素が混入している。また《湘南台文化センター》では、ドームに用いられたアルミ溶射 をはじめとするさまざまな技術開発が行われており、長谷川自身も建築の生産システムに対して積極的な介入を行っている。その意味で長谷川は、高度化した建築生産システムから疎外されていくその後の建築家たちとは一線を画している。
5) 建築界に新しい「話法」を持ち込んだ
《湘南台文化センター》は、日本の建築界への女性の本格的な参入を印象づけたプロジェクトであり、それ以前はホモソーシャルで、したがって男性的な「話法」しか存在しなかった建築界に、これまでとは異なるジェンダーに対応した新しい「話法」が持ち込まれた画期のひとつとなった。
これらの特色は多分に、彼女および彼女と同世代の建築家たちが70年代、小住宅を対象に切磋琢磨したことが重要な土壌になったと考えられるのだ。そしてどの特色も、現代の建築界に対しても極めて批判的な問いとして機能しうる。そこで2019年3月23日に長谷川に対して行われたインタビューでは、当時の資料に基づきながら、上記の5つについての実情が主に問われることになった。
結論からいえば、長谷川へのインタビューは、極めてエキサイティングなものだった。すでに述べたとおり、日本の1980年代の建築は、いわゆるポストモダン建築として、その前後と断絶していると理解されることが一般的である。しかし、少なくとも《湘南台文化センター》においては、1970年代に若き建築家たちが小住宅を通じて発したラディカルな問いが、より社会性を増して大きく展開していたのであり、今回のインタビューは、このことを確信させるものになった。
長谷川は「野武士」たちの中心にいた建築家のひとりであり、同世代の建築家たちと公私にわたり、頻繁に侃々諤々の議論を交わしていたという1。したがって、長谷川が《湘南台文化センター》以前に完成させた比較的小規模の作品にも、1970年代の小住宅と同様に、都市の巨大化と環境悪化を助長した工業化された技術に向きあう態度や、建築の主体は住まい手や使い手であるべきだとする考えを、色濃く認めることができる。たとえば長谷川は、《徳丸小児科》(1979)において建築家とクライアントのフェアな関係構築に腐心して、建築家による独善的な意思決定を退け、《AONOビル》(1982)においては建築の企画にまで関与して、完成後のユーザーによる主体的な利用と円滑な運営を援助した。また《松山・桑原の住宅》(1980)を嚆矢とするパンチング・メタルなどの新しい材料の詩的な使い方は、その後の日本の建築界を席巻するほどの影響力を持ち、工業化された都市の風景に女性的な感性を与えることにつながった。《湘南台文化センター》は、こうした長谷川の試みの延長線上にあるものであり、そこでの問題意識は明らかに1970年代とも連続している。しかしこうした認識は、これまでの日本建築史が持たなかったものであり、日本のいわゆるポストモダン建築は、その位置づけの見直しを迫られることになるだろう。
1990年代以降の日本の洗練された現代建築の路線は、2011年の震災などを経て、行き詰まりを迎えつつあるように見える。その打開策は、1980年代の日本の狂騒のかげで行われていた、大胆な建築的実験に見いだすことができるかもしれない。以上が、インタビューを終えた私のポストスクリプトである。
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長谷川自身の証言に基づく。長谷川逸子,北山恒,長谷川豪「冒険が始まった時代」(『TOTO通信』2013年夏号,pp. 4-13,TOTO,2013)参照。 ↩
このエッセイはCCA c/o Tokyoのプログラム「Meanwhile in Japan」の一環として書かれたものです。すでに行われた3つの公開インタビューと、ウェブ掲載された原広司論に続くもので、さらに2つのエッセイ掲載と3冊の書籍出版が予定されています。