都市時代の先を告げる出来事
太田佳代子
ほぼ月一のペースで、伊東豊雄は東京から6時間かけて西日本の島、大三島に通っている。新幹線、長距離バス、車を乗り継いでの長旅だ。到着して彼が会うのは、地元の役人、プロジェクトの協力者、様々な関係者たちである。驚くのは、伊東はこの島からまったく仕事の依頼を受けていないことだ。百パーセント草の根レベルでの取り組みなのである。島の過疎化によって起こる問題を食い止めるために、既存の公共施設をどう改善ないし新設したらよいかを提言する、あるいは必ずしも建築に結びつかないプロジェクトを推進する、といったことを続けているのだ。クライアントもいないのに建築家が一つの場所にコミットするのは異例である。田舎ならばなおさらだ。伊東は同世代の建築家の大半と同様、都市だけを建築の土壌とみなし、都市だけを言説の対象としてきた。それ以外の場所は念頭になかったのだ。
しかし今日、都市以外の場所に目を向ける日本の建築家は増えている。日本全体を見渡してみると、妹島和世は犬島という小さな島に通い、ランドスケープをテーマとした参加型の長期プロジェクトを進めている。アトリエ・ワンの貝島桃代と塚本由晴は、2011年の東日本大震災で地震と津波による被害を受けた東北の漁村・桃浦で、地元の有志と民間基金と力を合わせ、復興再生に取り組んでいる。ドットアーキテクツの家成俊勝は、小豆島の馬木地区で、オープンキッチン、ローカルラジオ局、診療設備、ヤギ小屋、庭、写真アーカイブを収める木造の小屋群を考案し、地元住民と観光客の交流を活性化する公共スペースを作り出した。個性派のランドスケープアーキテクトであり理論家の石川初は、四国の農村を頻繁に訪れ、そこに暮らす年配の農業従事者たちから創造性に満ちたスキルを学んでいる。
こういった島や村は、程度の差こそあれ、産業の衰退と急激な過疎化に悩んでいる。1 地方自治体はもはや成すすべもなく、貧困状態は深刻で、市場経済が国全体を圧倒支配する状況にあっても、大都市から遠く離れたこれらの場所へは届かない。以前なら、世界的に名を知られた建築家も、こういった島や村に招かれて象徴となる建物を設計することもあっただろう。しかし現在、そこに建築家が訪れるのには、別のなにかが起きている気配がある。従来の設計発注システムではなく、新しいかたちの交換が建築家とその相手側(もはやクライアントではなく、地元の関係者といった方が適切か)のあいだに生まれている。労働人口やいかなる収入も不足しているという絶望的な状況から自然に生じたこの新しい関係に、建築家はなぜかとても熱心に打ち込んでいるようにみえる。この新しい交換形態とは何なのだろう。建築家は田舎になにを提供し、そこからなにを得ているのだろう。
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人口減少地図」日経電子版、2014年9月24日公開。 https://www.nikkei.com/edit/interactive/population2014/map.html 地図作成に使用されたデータは、日本創世会議、国立社会保障・人口問題研究所、総務省のリサーチに基づく。 ↩
20年前、ホウ・ハンルとハンス・ウルリッヒ・オブリストが共同企画した大展覧会「Cities on the Move」では、アジアの各地で加速度的に出現してゆく驚くべき都市の形態が提示された。当時、私たち──伊東、妹島、アトリエ・ワンを含む建築家の世代──は、無限に突然変異する巨大都市というものに、純粋な好奇心を抱いていた。東京、香港、上海といった都市の驚異の一つは超過密性であり、私たちはそれに刺激され、想像力をかき立てられた。そして、これらの都市もポスト成長期に入ると少子高齢化が進むということに、考えは及んでいなかった。
その後日本では、二つの重要なパラダイムシフトが起きた。一つめは人口減少と高齢化だが、それは非・都市のみならず大都市でも同様であり、東京も例外ではない。人口減少の速さと規模は著しく、国全体が突如として新時代にすべり込み、不安定な土台の上に立たされているかのようだ。東京都の統計調査によれば、2035年までには、東京に住む4人に1人が65歳以上となり、この高齢者人口のほぼ30パーセントが一人暮らしとなるという。人口減少によって首都でもすでに空き地や空き家が増え、周辺地域の社会的・経済的状況の悪化につながっている。
だが、新たな社会的難題が東京その他の日本の大都市に突きつけられていても、建築家たちはいまもって都市環境の未来に関与する場所にはいない。そこに大きく関わっているのが、二つめのパラダイムシフトである。すなわち、都市再開発の計画・設計が、大手組織設計事務所、あるいはゼネコン、デベロッパー、ハウジングメーカーの設計部門などに独占されているという現状である。これら従来のプレーヤーに加えて、テクノロジー、マーケティング、広告、セキュリティ関係の会社、さらにシンクタンクも市場に参入している。今日の都市計画は、市場経済に突き動かされる企業論理に付き従い、建築的思考とは別のロジックに支えられながら押し進められているのだ。
この現象により、個人的に力量がある(そして国際的に評価されている)日本の建築家が都市の変容に関わる余地はどんどん少なくなっている。こうした状況の中で彼らは、個人住宅や集合住宅、商業施設の仕事を手がけ、ラッキーな年には公共建築のコンペに応募する。既存建築のリノベーションは、2011年の東日本大震災以来、特に若手の建築家のあいだで一般的になった。
無論、これら二つのパラダイムシフトは、日本にかぎったものではない。都市の縮小と出生率の低下は、欧米の工業国においてすでに数十年間懸念されてきた。しかしそれはまた、中国のような急速に都市化する国々にとっても差し迫った状況となっている。また、新自由主義が都市のガバナンスと空間の再編成に与える影響も、場所を問わず、都市と建築の計画を専門とする者にとって重大な問題となっている。例えば東京の都心では、2002年以降、政府と東京都が(渋谷や新宿といった)いくつかの地域再開発のマスタープランを大手の都市デベロッパーに委託している。こうしたプランには、公共的利用に指定された広大なスペースも含まれており、デベロッパーはそれを規制緩和のパッケージディールに組み込むことで、建物の容積を増やすことが可能となる。その結果、市民は消費のためのコモンスペースをもっと手に入れるというわけだ。人口減少と超高齢化が進展し続けているにもかかわらず、都市構造はこれまでにも増して、もっと大きく、もっと高くなっていく。都市の計画基盤も定義そのものも、根底から変容しているのである。
一方、東京ほかの大都市の外では引き続き人口減少と高齢化が進んでいるが、それに反発する動きもすでに出てきている。問題の深刻化に危機感を抱き、地域再生のためのさまざまな構想が生まれはじめているのだ。例えば、一部の離島や山間地域では、大都市とは逆の傾向がすでに見られる。1 田舎への移住者(iターン、jターン)や帰還者(Uターン)の数も増えている。この現象の鍵となる要因は、人々の価値観の変化だろう。1990年代の景気後退が始まった後に生まれた世代が、東京一極集中に価値を見出すことはもはやない。彼らが都市に、あるいはモノの所有に執着することはもはやない。
別の要因として挙げておきたいのは、新製品や目新しい商品に素早く反応するという、日本の消費者市場が持つ浸透力である。農業、林業、漁業、繊維工業、手工芸など、地方で消えかけているこれらの産業が、起業家によって、先進技術を取り入れることにより復活する、といった事例も多々生まれている。観光産業もまた、犬島のような小さな島ではとりわけ特効薬となり得る。
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藤山浩「最新の全国的な人口動態と田園回帰の可能性」2017年9月報告資料。http://www.mlit.go.jp/common/001203325.pdf ↩
建築家が島や村へ通うのは、自分たちの拠点である都市では得られない状態をそういった場所が提供してくれるからだ。それが建築家にとっての「利益」であり、先に示した、建築家とその相手側との交換についての問いに対する答えである。一つの可能性としては、地域の人口がひとたびある程度まで減少すると、都心の管理の枠組みも資本主義の論理も及ばない曖昧な空間が生まれ、そこで型破りなアプローチや実験が可能になる、ということが考えられる。そういった場所にやって来た建築家は、異なる文脈のなかで、これまで都市では制限されてきた、あるいは予め否定されてきたことを試み、建築家の職能の範囲を拡げることもできるかも知れない──伝統的な意味での建築設計というかたちではないにしても、建築的思考やリサーチの幅を拡げることによって。
こういった島や村に生起する新しい関係において、建築家は徹底した近代化のシステムから切り離された位置で、社会との新たな関わりを築く実験場をどうにか手に入れたが、それはまた、資本主義体制での都市化が進むなかでの職業的サバイバルのための行動でもあるにちがいない。アトリエ・ワン、妹島、伊東、家成は、いずれも綿密なリサーチを行ない、住民のニーズを明確にし、問題解決のために取り得るさまざまな対処法を想定しながら、社会を理解するプロセスを自らの手に取り戻している。本来、こうしたプロセスは建築設計が発注される以前にもたれるべきであり、しかも結果的に建築プロジェクトになるともかぎらない。いずれにせよ、住宅設計の際には当然と見なされるこのプロセスは、ひとたび市場経済や行政管理がからむと省かれてしまうのである。
一つ重要なポイントとなり得るのは、この最初期の構想プロセスの復活によって、これまでになかった計画・設計の方法が可能になるかも知れない、ということである。そこでは例えば、「参加者」が建築的に考える能力を高める、ということも起こり得る。アトリエ・ワンも妹島も、地域に溶け込みながら、非常に柔軟なやり方で村や島を再活性化するという仕事に取り組んでいる。ゆるやかな枠組みのなかで、妹島はアイデアを生み出し、地域住民、訪問者、アーティスト、学生らの参加によってそのアイデアをどう実現するか考え、長期にわたってその遂行を監督する。スローだが着実なペースである。参加者は所定のプログラムを「やりながら学ぶ」よう仕向けられる。「やりながら学ぶ」というプロセスは、人の流入を促すだけでなく、地元経済も活性化させる。
アトリエ・ワンの貝島が長期復興計画に関与している桃浦のケースでは、オルタナティヴ・スクールが、漁師の育成だけでなく、スキルを教え合うという試みのために設立された。ここに来れば誰でも、公的教育制度の外で個々人の持つスキルを教え、学ぶことができる。ここで実践されているオープンな教育プログラムは、村の再生の力となる未来の住民と起業家の育成を究極的に目指している。そのシナリオは基本的に、「メイド・イン・トーキョー(1996年)」から「Behaviorology(2010年)」まで、塚本・貝島らによる20年以上にわたる調査観察によって得られた洞察力を根底に据えている。ある意味、桃浦プロジェクトは、現代の都市とそこに生きる人々のふるまいをつぶさに観察してきた彼らの試金石と言えるだろう。
ここで述べた新種の計画ないし設計方法は、自らの建築的思考を動員する「建築家」と、建築家の思考を啓発したり豊かにしたりしながら、いつの間にか建築的に考えるようになる「住民その他」のあいだの生産的な交換と言い換えることができる。「デザイン思考」というコンセプトが、人々のデザインに対する考え方を大きく変えたように、建築的な思考をより広く普及させれば、参加型の計画・設計が達成できることの幅を広げられるかもしれない。このような関係において新しい領域を切り開くことができる建築家は、伊東の言う「個人のオリジナリティ、あるいはクリエイティビティと言われるような、そういうところに賭けるような」建築家に取って代わる存在となるかもしれず、建築が今日なにより必要としているものだと思う。
「通っているうちに、小ささがすごい特徴だなと思いだして。(みんなで)やった結果が小さいからみんながわかる。それがすごい面白いことだなあと思って」と妹島は言う。レム・コールハースは現代都市に関するエッセイのなかで、「建築はあるスケールを超えると大きい(ビッグ)という資質を獲得する」と書いた。妹島ほかの建築家は、大きいこと(ビッグネス)の複雑な問題や不透明性と格闘したのちに、小さいこと(スモールネス)にたどり着いたのではなかったか。これら日本人建築家は、島や村に「スモールネスの資質」を発見したのではないだろうか。
実験は始まったばかり。願わくば、実験の成果をなんらかのかたちで都市に応用してほしいものだ。その意味で、妹島が語ったことは心強い──「自分の町を自分たちがいいと思うようにやってみようなんて、私も思いもつかなかったんだけど、このプロジェクトをやっていると、自分たちが生活する場所に、もうちょっといろんなところから関わっていけるはずだなあという風に思うようになりました。(都会でも)生活の仕方を楽しく工夫している若い人たちが、自分たちの好きにやってみようって取り組んだら、すごく面白い時間や空間が出現するような気がするんですよね」。一つの方法としては、都市のなかに独立した小さな領域を確保し、島で得た経験を基に、治外法権的に実験を実行することが考えられるだろう。
建築家たちの実験の成果は、いきなり視覚的なデザインのかたちで示されるものではないかもしれない。だが長期的に見れば、島や村での経験は、建築の価値観そのものに根本的な変化を引き起こし、建築家の仕事をすっかり変えてしまう可能性もある。今日の島や村は、建築が本質的に生まれ変わる可能性を探る行為の最前線であり得るのだ。